球磨焼酎(くましょうちゅう)球磨村
所在地
球磨村
利用案内
- 駐車場:
- トイレ:
解説
球磨の風土が育てた銘酒
焼酎のように蒸留してお酒を造る技術は外国から伝わったものです。中国では14世紀頃からお酒を作るための蒸留が行われていました。最初に日本に焼酎がもたらされたという記録は朝鮮半島からのものです。1404年、李氏朝鮮の太宗が対馬の宗貞茂に焼酎を送ったという記録です。しかし、対馬や壱岐ではその後明治時代まで焼酎を島で作っていたという記録はなく、焼酎を造る技術は琉球経由で九州にもたらされたであろうと考えられています。1420年、琉球はタイとの交易を始め、焼酎も輸入されるようになりました。その後間もなく、琉球でも焼酎の製造がはじめられました。これが泡盛です。泡盛には今でもタイのお米が使われています。これが16世紀の初頭に薩摩に伝えられ、九州でも焼酎が造られるようになったと考えられています。
さて、人吉市の南隣、鹿児島県の大口市に郡山八幡宮という神社があります。永禄4(1586)年に建てられた本殿は彫刻、彩色も見事で国指定の重要文化財に指定されています。昭和29(1954)年、この建物の解体修理が行われましたが、この時おもしろいものが見つかりました。「 永禄二歳八月十一日作次郎鶴田助太郎其時座主ハ大キナこすでをちやりて一度も焼酎を不被下候何共めいわくな事哉」という落書きです。神社の座主がけちで、一度も焼酎を飲ませてくれないというものです。この頃にはこの地域で焼酎を飲む習慣が一般化していたことが分かります。今は大口を始め薩摩ではサツマイモを原料とした焼酎が造られていますが、永禄2(1584)年はまだサツマイモが日本に伝わる以前のことです。何を原料にしていたかは分かっていません。琉球から泡盛の製法が伝わったことを考えれば米であった可能性が高いと考えられています。
江戸時代になると相良藩の記録にも焼酎のことが出てきます。江戸時代は焼酎を祭りのためや家で飲むために作るのは自由だったようですが、販売は人吉城下では醸造株を持った者に限られていました。醸造株を持つ者は毎年相応の冥加金を藩に治めていました。また、その城下以外の地域で焼酎を売る店のことを入立茶屋と呼んだそうです。藩に対して多額の寄付をした人がこの営業が許されたそうです。猫寺の伝説や民謡「お嶽詣り」に出てくる免田の茶屋などもこうした茶屋のひとつです。しかしこのころはまだ今の焼酎とは味も香りも違ったようです。明治・大正時代になって焼酎造りに大きな転機が訪れます。原料が玄米から白米に換わったこと、麹と米と水とを同時に加えて仕込む一段仕込みから、麹、米、水で1次もろみをつくり、これに大量の米、水および酵母を加えて2次もろみをつくる二段仕込みが普及したこと、清酒と同じ麹菌をつかっていたものが暑さに強いクロコウジカビを使うようになったことです(現在は黒麹の変異種である白麹が多く使われています)。これによって今のように安定して、すっきりした味わいの焼酎が作れるようになりました。
現在は昔ながらの瓶仕込みをしている所から減圧蒸留でより癖のない焼酎を造っている大規模な工場まで様々な醸造元があり、そのおよそ30、銘柄数は200を超えています。球磨盆地を巡って酒蔵めぐりをするのも良し、おみやげに買って帰った焼酎をゆっくり楽しみ、お気に入りの銘柄をさがすのも良し。球磨焼酎は球磨盆地の米、球磨川の伏流水、球磨盆地の気候、そこに住む人の歴史、技が一体となって醸し出される球磨の文化遺産です。心行くまで楽しんで下さい。