宮崎八郎戦没の碑(みやざきはちろうせんぼつのひ)八代市
所在地
八代市萩原
利用案内
- 駐車場:なし
- トイレ:なし
解説
宮崎八郎
球磨川の堤防沿いに「宮崎八郎戦没の碑」(碑銘は司馬遼太郎氏の書)が建っています。
宮崎八郎は、嘉永4年(1851年)、玉名郡荒尾村(現荒尾市)に生まれました。15才で藩校・時習館に入り、東京遊学中に征台論の建白を行い(のち八郎自身も台湾出兵に参加)、明治6年(1873年)に政変により西郷隆盛が下野すると政府に不満を申し立てました。反政府の立場から政治活動を行い、明治7年(1874年)には「征韓之議」という意見書を政府に提出しています。
病を得て帰熊した八郎は、明治8年(1875年)4月26日に植木学校を開校しました。植木学校では、ルソーの『民約論』の講義や「撃剣又は戦争の時の負傷者死屍を運搬する稽古」等が行われました。また、八郎らは民権運動の遊説活動を積極的に行い、植木学校は、熊本における自由民権運動の拠点となりました。危機感を持った県は半年で植木学校を閉鎖しますが、八郎は東京で評論新聞社に入って政府批判を強めていきました。
西南戦争と八代
明治10年(1877年)2月、西郷隆盛を中心とした薩軍が明治政府打倒を目指して立ち上がると、八郎は熊本協同隊を結成、最終的には約400名が参加しました。協同隊は2月21日に薩軍と川尻で合流し、26日には鍋田(山鹿)の戦いで勝利を収めます。
一方、政府は薩軍の補給路を断ち、北と南から挟み撃ちにするために衝背(しょうはい)軍を送りました。3月19日に二見洲口の海岸に高嶋大佐の率いる旅団が上陸し、八代での本格的な戦闘が始まりました。
これに対し薩軍本営は、政府軍の背後に回り込んで挟み撃ちにする作戦をとり、別府晋介らとともに、八郎にも八代行きを命じます。そして4月6日、萩原堤で八郎は27才で戦死します。八代での戦闘は4月17日の宮地での戦いをもってほぼ終結していきます。
参考文献
熊本市史編纂委員会 編『新熊本市史 通史編 第5巻 近代1』熊本市、2001年
周辺情報
宮崎八郎が戦死した萩原堤は、江戸時代に築かれた堤防です。