萩原堤(はぎわらづつみ)八代市
所在地
八代市萩原
利用案内
- 駐車場:なし
- トイレ:なし
解説
八代城以前の堤防
萩原堤は球磨川が八代に入ったあたりから新萩原橋にかけて大きくカーブを描いている右岸にあたります。上流側には妙見宮などがある古麓(ふるふもと)などの集落があり、船着場などが整備されたと考えられます。中世になると古麓城が置かれ、港町として発展していく過程で堤防も徐々に築かれていったと考えられますが、本格的に工事が行われるのは加藤氏の時代になってからです。
加藤氏が八代支配に乗り出したころは八代の中心は古麓城から麦島城に移っていました。上流から下流域まで集落が発展し、その村々を水害から守るために堤防の改築に着手しました。萩原堤の下流も以前から堤防の整備はされていたと考えられますが、本格的に大改造に取りかかるのは八代城(松江城)が築城されたときからです。
八代城建設と堤防改修
八代城は球磨川の河口部に建設されたため、川と海への備えが重要課題となっていました。築城の責任者、加藤正方(まさかた)は上流から萩原堤、はぜ塘(ども)、前川堤、潮塘と築造しました。萩原堤とはぜ塘は下流の村々を守るために、前川堤と潮塘は城を守るために、と単純に分けて考えることもできますが、城下を守るために上流部の堤防にもいろいろ工夫がされていました。
上流から勢いに乗った流れは萩原堤でおよそ90度曲がります。曲がることで勢いを多少殺すことはできますが、堤防へかかる負担は大きくなります。そこで、「天神はね」とよばれる石で築かれた緩衝帯(石ばね)で流れを押さえ込みました。
また、のちに細川忠興は、前川へ分流する地点には川幅いっぱいに川底に石を敷き、流れを緩める事業を行っています。流れは、はぜ塘へと進み、現在の旭中央通りを遊水池として城下に流れ込みました。
松塘の決壊
加藤氏改易後、代わって細川忠興が入城し、この堤に松を植え始めたので松塘(まつども)とよばれるようになりました。
百数十年ものあいだ、城下を守ってきた堤防でしたが、宝暦5年(1755年)の大水害によって決壊し、500名以上の人命が奪われるという大惨事でした。その後、八代郡目付・稲津弥右衛門が工事に取りかかり、弥右衛門は寄付を募って資金を集め(松尾伊太郎は7,000貫寄付したといいます)、働きによって賃金を出すことを郡内に知らせました。
再び壊れないものをと、下幅「二十余丈」、上幅「四尺五尺」の堤防を数百mにわたって築きました。工事に参加した人びとは「あのや稲津様は、仏か神か、しぬる命を助けたも」と唄いながら働いたといいます。
のちに、藩主・細川重賢もこの歌を口ずさみ、それを伝え聞いた弥右衛門は感激の余り落涙したと伝えられています。
参考文献
八代市史編纂協議会 編『八代市史 第3巻』八代市教育委員会、1972年
八代市史編纂協議会 編『八代市史 第4巻』八代市教育委員会、1974年