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相良義陽の墓(さがらよしひのはか)八代市

相良義陽の墓のイメージ1
相良義陽の墓のイメージ2

所在地

八代市古麓町

利用案内

  • 駐車場:なし
  • トイレ:なし

解説

相良義陽の墓

相良義陽(さがら よしひ)の墓は、球磨川沿いの肥薩おれんじ鉄道とJR肥薩線が交差するところにあります。
明治末期にこの墓を人吉に移したところ、それまで八代で墓を守っていた人と相良氏の子孫にあたる人の双方に、「義陽が麓(ふもと、以前の墓所)に帰った」と夢見があり、元に戻したといわれています。胴体は、義陽が討ち取られた響ヶ原(ひびきがはら)に葬られています。

相良義陽

義陽は、相良氏17代・晴広の子として天文13年(1544年)に生まれ、弘治元年(1555年)に12歳で家督を継ぎました。このころ、島津氏は数度にわたって八代に侵攻し、島津氏の攻撃に耐えてきた相良氏でしたが、天正7年(1579年)、圧倒的な島津氏の軍勢に追い込まれたため、義陽は和議を申し込み、水俣・湯浦・津奈木・佐敷・市野瀬の5城を渡し、島津義久と誓約を取り交わしました。

義陽の最後

天正9年(1581年)11月、島津義久は阿蘇氏を討つために、義陽に対して、義陽の盟友でもある阿蘇家重臣・甲斐宗運(かい そううん)を討つことを命じます。阿蘇氏との盟約に背く戦いにおもむくにあたり、義陽が討ち死にを覚悟したことが妙見社への願書からうかがえます。
義陽が妙見社から出陣しようとしたときに突風が襲い、鳥居の横のクスノキに旗が巻き付いてしまったため、取ろうとしたところ旗竿が折れてしまいます。これを不吉と出陣を控える声もありましたが、義陽は決行、兵800を率いて響ケ原に着陣しました。
味方が甲佐城を落としたという報告を受けて義陽軍は大いに沸きましたが、宗運の反撃にあい、12月2日、緒方喜蔵によって討ち取られてしまいました。なお、野木太郎左衛門が首を斬ったが、悔やむところあって敢えて首を取らず、緒方喜蔵が首を得たともいわれます。

参考文献

人吉市史編さん協議会 編『人吉市史 第1巻』人吉市教育委員会、1981年
中央町誌編さん委員会 編『町誌中央』中央町、1977年

地図

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相良堂

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