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相良堂(さがらどう)宇城市

相良堂のイメージ

所在地

宇城市豊野町糸石

利用案内

  • 駐車場:なし
  • トイレ:なし

解説

相良義陽の苦悩

戦国時代の肥後は、大友・竜造寺・島津の3つの勢力にはさまれて動揺していました。天正9年(1581年)、薩摩の島津義久は出水を本営として、芦北に侵攻しました。八代・芦北・球磨の3郡を支配していた相良義陽(さがら よしひ)が迎え撃ちましたが、あえなく敗れて降伏しました。
島津義久は、義陽に対して降伏の証しに阿蘇氏攻撃の先鋒を務めるよう要求しました。相良氏と阿蘇氏を戦わせることで双方を消耗させ、同時に肥前の竜造寺氏をけん制しようとしたためです。島津義久の命令を受けた義陽は、阿蘇氏を討つために阿蘇氏の重臣で、盟友でもあった御船城主・甲斐宗運(かい そううん)と戦わざるを得なくなってしまいました。

響ヶ原合戦

天正9年(1581年)12月、8千の兵を率い、八代を出発して御船に向った義陽は、守山・小野から裟婆神峠に陣を構えました。そこで堅志田城や豊内城を攻め、優勢のまま、響ヶ原に陣取りました。しかし、休息をとり、祝宴をあげていた隙を甲斐宗運につかれ、本陣を急襲された相良勢は義陽以下多数の戦死者(約300名)を出しました。
もともと守備には不利な響ヶ原に本陣を敷いたことや、盟友であった甲斐宗運を裏切らざるを得なかった苦悩から、義陽は覚悟の戦死であったともいわれます。義陽を失った相良氏は、忠房(ただふさ)が後継者になりましたが、八代を追われて人吉に封じ込められました。いっぽう島津義久は八代まで進出し、肥後を治める前線基地として弟の島津忠平(のち義弘)を配しました。

相良堂

現在、響ヶ原には供養のための「相良堂」が、響ヶ原台地の片隅の木立のなかにひっそりと建てられています。義陽ら戦死者の供養碑が家臣の手で建てられ、のちに小西氏の南条元宅が補修し、相良塚とよばれました。
なお、相良堂にある石碑には、「言い伝えによれば、合戦の夜(12月2日)に響ヶ原を通ると、馬のひづめの音や剣で争う音に混じって、戦う人々の叫び声が聞こえると言われている」と書かれています。

参考文献

熊本県教育委員会 編集・発行『親子で楽しむくまもとの文化財 県央編』1994年
豊野村史編纂協議会 編『豊野村史』豊野村、1991年

地図

関連する情報

相良義陽の墓

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