野田英夫

 1908年、野田英夫はカリフォルニア州の日系移民家庭に生まれました。日本の教育を受けるため幼少期からは熊本で過ごし、18歳でアメリカに戻ります。美術学校で学んだ後には、日米双方で画家として活動。彼が活躍した1930年代は世界恐慌が起こり、社会的混乱、貧困や差別など深刻な状況にありました。その中で野田は、芸術は「生活に根差したもの」という考えのもと、大衆に目を向け、暮らしの中の現実を見つめ、人々の生きる力を描いています。

野田英夫《地下鉄入口は暮るる》

作者略歴

1908年 日系アメリカ移民の子としてカリフォルニア州に生まれる。
1911年 日本で教育を受けるため、熊本市の叔父のもとに預けられる。
1926年 熊本中学校卒業後、単身渡米。
         ピードモント・ハイスクール(カリフォルニア州)に入学。
1929年 同校卒業。サンフランシスコのカリフォルニア美術専門学校に入学。
1931年 同校中退。
         ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグの教授に招かれてニューヨークに行き、
         ウッド・ストック芸術村に住む。
1932年 ウッド・ストック美術協会展、サンフランシスコ美術協会展で受賞。
         アメリカ人のルース・ケルツと結婚。
         父母は27年間の移民生活を終えて帰国。熊本県宇土郡不知火桂原(現宇城市不知火町)に住む。
1933年 シカゴ美術協会展、サンフランシスコ日本人芸術協会展に出品。
         リベラがニューヨークのロックフェラー・センターに制作した大壁画の助手を、ベン・シャーン
         ジャクソン・ポロックらと務める。
1934年 ニューヨーク市シヴィック・センターに全米政府事業として壁画を制作。
         ニューヨーク壁画連盟会員となる。
         ホイットニー美術館ビエンナーレ展に出品。美術館買い上げとなる。
         帰日。
1935年 東京銀座の青樹社画廊での個展開催。
         第22回二科展に出品し日本画壇に初登場。
1936年 ニューヨークに戻る。
         その頃から美術雑誌「ザ・アート」「クリエイティブ・アート」等に論評され、画家として知名度
         が高まる。
1937年 母校ピードモント・ハイスクールにフレスコ壁画を制作。
         再来日し、第2回新制作派協会展に出品。会員となる。
1938年 銀座の日動画廊で個展開催。好評を博す。
1939年 脳腫瘍で死去(30歳)。

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