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西巌殿寺(さいがんでんじ)阿蘇市

西巌殿寺のイメージ

所在地

阿蘇市黒川

利用案内

  • 駐車場:あり
  • トイレ:あり

解説

新旧二つのお寺

JR豊肥本線阿蘇駅で列車を降り、登山道路を登り始めると右手に古い寺院が見えてきます。門を入るとこけむした池と杉の木立があり、さらに奥へ進むとそこに西巌殿寺があります。以前は、さらに石段を登った一段高いところに本堂がありましたが、残念ながら平成13年(2001年)の火災により焼失してしまいました。
西巌殿寺は、もともと古坊中(ふるぼうちゅう)というところに本堂がありました。古坊中とは、現在の草千里と中岳火口の間の地域で、谷にそって北に下ると、現在の西巌殿寺がある坊中です。 古坊中に寺院があったころは、九州でも有数の霊場として全国から修験者や行者、山伏が集まり、香の煙が絶えることがなかったといわれています。

西巌殿寺の由来

西巌殿寺の由来には、奈良時代初期の聖武天皇のころ、天竺(てんじく、現在のインド)から来た最栄(さいえい)という僧が、阿蘇山上で建磐龍命(たていわたつのみこと)と対面し、十一面観世音を彫り、西の厳(いわや)の室に安置してまつったのが始まりという説があります。
一方、平安時代末期、比叡山の僧・最栄が阿蘇大宮司・阿蘇友孝に請われて阿蘇に住み、西の厳殿(現在の山上本堂の位置)に自ら彫った十一面観世音を安置し、人びとが最栄読師とよんだように、一心に法華経を唱えたことから西巌殿寺とよんだという説もあります。

西巌殿寺の盛衰

西巌殿寺はもともと単独の寺院の呼び名ではなく、最栄が最初に建立した寺院を本堂として、僧侶の坊舎が37、坊舎に付属する庵がつくられ、これらの総称が西巌殿寺です。ここには天台の教えを信仰する衆徒や霊場として修行する行者、それに山伏が集まり、栄えましたが、戦国の戦乱により、古坊中の西巌殿寺は焼失したといわれています。
その後、江戸時代初期、加藤清正により分散していた衆徒、行者、山伏が呼び戻され、現在の坊中である黒川村に復興させたのが、麓(ふもと)坊中の西巌殿寺です。
復興された麓坊中の西巌殿寺は、江戸時代を通して繁栄しましたが、明治の神仏分離令で廃されることになりました。しかし、山上に残されていた本堂を麓坊中の坊のひとつであった学頭坊に移し、西巌殿寺という単独の寺院として残すことになりました。これが現在の西巌殿寺であり、山上には山上本堂が再建されています。

現在の西巌殿寺

もともと西巌殿寺は、仏教を学ぶ僧や修行をする行者が暮らした場所でした。そこで、先代の住職が4月13日に「観音祭り」(招魂祭とも)を始め、山伏衣装を身に着けた行者たちが、一堂に集まり「火渡り」や「湯たて」などの荒行を行います。
その一方、寺の檀家には昔から木彫の守護神「神像」がまつられていますが、それらの研究整理や、大蔵経(だいぞうきょう)の整理も進められています。

参考文献

熊本日日新聞社編集局 編『新・阿蘇学』熊本日日新聞社、1987年
阿蘇町教育委員会 編・発行『史料阿蘇 第1集』1978年
熊本県教育委員会 編・発行『熊本県文化財調査報告 第49集』

周辺情報

坊中の西巌殿寺を見学し、横を通る登山道を登れば草千里ヶ浜、阿蘇火山博物館に着きます。36坊あったといわれる西巌殿寺跡(古坊中)には土地の区画がはっきり残っています。

地図

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