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宮原三神宮(みやはらさんじんぐう)氷川町

宮原三神宮のイメージ

所在地

八代郡氷川町下宮

利用案内

  • 駐車場:あり
  • トイレ:あり

解説

地域に愛されるお宮

三神宮は、天照皇大神(伊勢神宮内宮)、国常立尊(近江日吉宮)、神武天皇(山城下加茂神社)の三神をお祀りするのでこの名前が付けられたといいます。社伝によるとこのお宮は、平治元(1159)年、二条天皇の勅命を受けた平重盛が越中前司平盛俊に命じ、八代郡土北郷火村に社殿の造営を始め、応保元(1161)年6月に建物が完成、8月に社司に命じられた平重房、勅使平重盛らの手により霊を勧請(かんじょう)し、神璽(しんじ)・鏡などを納め創建されたと伝えられています。最初は三宮社といったそうです。鎌倉時代には衰退した時期もありましたが、南北朝時代以降、征西将軍懐良親王(かねながしんのう)をはじめ名和氏や相良氏の庇護により社勢を盛り返します。天正16(1588)年当時宇土城主小西行長の荒行により御社殿が焼失しましたが、慶長6(1602)年、加藤清正によって復旧されました。寛永年間以降(1624年~)は肥後国主の細川氏の厚い庇護により、御社殿の修復もされました。寛文元(1661)年、神蔵寺など六坊が建立され、八代宮地の妙見宮にならい、宮原妙見社となりました。明治維新の際、神仏分離がなされ寺は無くなり、社名を三神宮と改め現在にいたっています。
秋季例大祭は10月13日に豊年を感謝するために行われてきました。式典では、式神楽が舞われ、午前11時に神幸行列が三神宮を出発します。獅子舞を先頭に、神馬、猿田彦大神、神輿(みこし)、祭員、甲冑武者、奴、子ども神輿、ドラ、亀が続きます。
行列の先頭を行くのは魔払いの獅子舞です。昔は上鏡の人たちによって舞われていましたが戦後、後継者が不足し舞われなくなっていたものを昭和53年に宮原町の有志が獅子頭から手作りし、舞は八代から習って復活したものです。
また、大名行列にあった奴の芸は「トコセイ」とも呼ばれ、北川地区の人たちによって演じられます。明治6年、雨乞い祈願の際、北川地区の人たちが三島流の奴を演じたのが始まりだといいます。
奴のあとは子供たる神輿が続きます。昔は子供神輿ではなく、宮原、野津、吉野、和鹿島、有佐の各町村から12頭の飾り馬が奉納されていたそうです。最後の亀は原田の人々によって奉納され競われます。この亀は明治13年、小川町の出来町の亀を原田地区の人たちがもらい奉納するようになったそうです。亀の尻尾をもらって帰ると風邪よけのまじないになるといいます。
さて、祭りの行列はお旅所の竜北町河原の川原大神宮で昼食の後、三神宮へと戻ってきます。到着後、15時から肥後神楽と巫女神楽が2時間にわたって舞われます。町内14地区から出される子ども神輿が出て、お祭を盛り上げています。

参考文献

『宮原町郷土誌』 宮原町公民館編集・発行 1959
宮原町文化財保護委員会編『宮原の民俗』 宮原町公民館 1982

周辺情報

近くには立神峡があります。

地図

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