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上土城跡(岩崎神社)(うえつちじょうあと・いわさきじんじゃ)八代市

上土城跡(岩崎神社)のイメージ

所在地

八代市千丁町太牟田

利用案内

  • 駐車場:なし
  • トイレ:なし

解説

戦国の争乱とい草栽培の始まり

上土城

室町時代から、八代地方は名和氏が領有していました。ところが、八代地方は幾度となく争いの場になり、特に人吉地方を領有する相良氏との間で多くの争いが起こりました。また、相良氏に限らず、周辺の甲斐氏をはじめ、菊池氏や天草衆なども常に警戒する必要がありました。そこで、名和氏の重臣であった蜂須賀越後守義親(はちすかえちごのかみよしちか)の子、治部少輔家親(じぶしょうにいえちか)は、文亀元(1501)年に、現在の千丁町太牟田の地に上土城を築きました。上土城は、近くに八代海を望み(注1)、軍事拠点として重要な役割を果たしました。

い草を伝えた岩崎氏

永世元(1504)年、相良氏に敗れた名和顕忠(なわあきただ)は宇土城に退き、代わって相良氏が八代を領有することになりました。相良長敏(さがらながとし)は古麓城(八代市古麓町)に入り、相良氏の重臣を各支城に配置しました。この時、上土城主として入ってきたのが、興善寺城代(こうぜんじじょうだい)相良伊勢守(さがらいせのかみ)の与力、岩崎主馬忠久(いわさきしゅめただひさ)です。
岩崎主馬は、文武両道に通じた、領民思いの武将だったといわれ、領民のために、永正元(1504)年、領内の古閑・渕前にい草を栽培させたと言われています。これが千丁でのい草栽培の始まりです。い草の原種については、「千丁村史」によると、(1)八代市川田町の射鳥越から、(2)備後国からの二説がありますが、はっきりしたことは分かっていません。しかし、寛永13(1636)年の古文書には「太牟田表」の名称が見えますので、い草の栽培が盛んになり、遅くとも江戸時代初期には太牟田表(ゴザ)が広く知られていました。今ではい草生産量日本一を誇っています。
岩崎主馬は永正元(1504)年から天文12(1543)年まで在城し、その後、村山飛騨守(むらやまひだのかみ)が入城します。その村山飛騨守は、主である相良義陽(さがらよしひ)が薩摩の島津氏に従い、甲斐宗運(かいそううん)を攻めることになりましたが、天正9(1581)年の響ヶ原の戦いで相良義陽も村山飛騨守も戦死し、それ以後、廃城となりました。現在、上土城の遺構は残っていませんが、「城(じょう)」、「うて(大手の意)」などの字名、小名が残っています(注2)。
上土城跡には、い草栽培を始めた岩崎主馬忠久を祀る岩崎神社が建てられています。

なぜい草栽培なのか?

先述のように、い草の原草はどこからきたのかはっきりとしたことは分かっていません。また、なぜ栽培させたのがい草なのかもはっきりとしたことは分かっていません。あくまで推測ですが、八代地方の低湿地帯に古くから野生しているい草があり、気候もい草栽培に適していて、さらに多くの川が流れ、水に恵まれていたという自然条件があったからではないでしょうか。
また、書院造りの普及や茶道の発展などにより畳の需要が増えたため、相良氏はい草を商品作物と考えて栽培させたのかもしれません。いずれにせよ、千丁町は岩崎主馬忠久の恩恵を十二分にうけた町といってもいいでしょう。
(注1)当時の海岸線は現在より随分内陸側で、上土城があった場所のすぐそばは海でした。
(注2)「熊本県文化財調査報告第30集熊本県の中世城」熊本県文化財保護協会

参考文献

萩本敬三編 『千丁村史』 千丁村役場 1968
『千丁の歴史を訪ねて 史蹟・伝承と干拓地』 千丁町教育委員会 1990
『藺 藺表 畳の歴史』 千丁町教育委員会社会教育課編集資料
『熊本県文化財調査報告 第30集 熊本県の中世城』 熊本県文化財保護協会 1978

地図

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