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塩釜神社(しおがまじんじゃ)水俣市

塩釜神社のイメージ1
塩釜神社のイメージ2

所在地

水俣市塩浜町

利用案内

  • 駐車場:あり
  • トイレ:あり

解説

製塩業が盛んだった水俣の浜

水俣第二中学校とチッソのグラウンドの間に塩釜神社という神社があります。塩釜神社は、その名が示すとおり製塩の神様を祀ったものです。またこの一帯の地名を塩浜町といいます。なぜここが塩浜町と呼ばれ、製塩の神様が祀られているのでしょうか。実は、江戸時代以来、この一帯は盛んに塩が作られたところでした。
このあたりで製塩が本格的に始まったのは、1667年と言われています。「揚げ浜式」といわれる製塩法で、明治43(1910)年のまで約250年間続けられ、水俣の主要産業の一つでした。精製された塩は、鹿児島県の大口や菱刈方面に運んで販売したり、物々交換をしたりしていました。水俣の塩は俵に入れ、クズカズラでくくっていたので、別名「カズラ塩」といって、広く知られるようになりました。
現在塩はイオン交換膜法という方法によって、工場で作られます。では、水俣で行われていた揚げ浜式の製塩とはどんな方法でしょうか。
まず海水を汲み上げ、砂が敷いてある塩田にまきます。これを天日で干すと砂に塩の結晶がつきます。この砂を集めて潮水(海水)で溶かし、濃縮した塩水を作ります。この塩水を「スメ」と呼びました。スメが貯まると、これを塩田よりも少し高い場所に建てられた「ボヤ」と呼ばれるわらぶき小屋で焚きます。スメを土で作った平釜に移し、水分がなくなるまで何日もかけて煮詰めて塩にします。塩づくりは海水がよく蒸発する夏の炎天下での作業です。海水をくみ上げ塩田にまく作業、早く乾くように焼けた塩田の砂に畝を立てる作業、砂を運ぶ作業、真夏に火を焚き続ける塩焚きの作業、どれもが大変過酷な重労働です。
塩焚きがなされていた頃、塩田より高台にある塩釜神社は、働く人々の安らぎの場でもありました。神殿には四体の木彫りの神の像が祀られています。9月24日が祭日とされ、塩田の労働に明け暮れていた人々も、この日は仕事を休み、ごちそうを持って境内で行われる相撲見物に出かけたそうです。周辺の松の木陰には露天も並び、子どもたちも心待ちにした秋の大祭でした。現在は、地元19区寄ろ会の皆さんが、年に一度の大祭に合わせて、境内で昔ながらの塩焚きを再現しています。できた塩は神社に奉納され、また地域の方々にも配られます。
時が過ぎ、長い歳月続いた塩焚きもなくなり、塩田も工場や住宅地になっていきました。神社の境内に腰を下ろしていると「わたしゃ水俣、塩焚き女子、色の黒いのはごめんなされ」と、炎天の浜に出て真っ黒になって働いていた娘たちの歌が聞こえてくるようです。

参考文献

水俣市史編纂委員会 『新水俣市史 民族・人物編』 水俣市 1997

地図

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