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高瀬飴(たかせあめ)玉名市

高瀬飴のイメージ

所在地

熊本市高瀬

利用案内

  • 駐車場:
  • トイレ:

解説

高瀬名物

米やイモなどを蒸して麦モヤシ(発芽した麦:麦芽)を加えると、麦芽に含まれるジアスターゼにより澱粉(でんぷん)が分解されて、水飴(麦芽糖・ばくがとう)ができます。麦芽で澱粉を分解して麦芽糖を作る技術は紀元前4000年頃、古代バビロニアで発明されたそうです。日本でも平安時代には水飴が作られ、市で売られていたことが知られています。砂糖が輸入される以前は水飴の甘さは大変貴重なものでした。この水飴を煮詰めて、練って、気泡が入り白くなり固まったものを白飴といいます。白飴は全国各地で作られましたが、熊本では高瀬の飴が有名です。
高瀬飴の歴史は古く、室町時代に中国との交易が盛んに行われた当時の中国の商人によって製法が伝えられたと言われています。また、加藤清正が文禄の役(1592年)の体験に基づき、長期の保存食料として考案したともいいます。江戸時代、玉名市中心部を流れる菊池川は、水運の大動脈となり、高瀬には菊池川流域の各地から米が集まり、藩のお蔵も建てられ、高瀬の町は非常に繁栄しました。鎖国により砂糖が手に入りにくくなると、当地の良質のもち米を原料とした飴づくりが奨励されました。高瀬飴は食べると乳の出が良くなると言われ、お産見舞いとしてよく利用されました。甘い物がない時代、妊産婦には貴重な糖分補給として喜ばれたそうです。重箱を持って買いに来る人もいたそうです。また、30~40年前からは千歳飴の代わりとしてもよく利用されました。しかし、様々な甘いお菓子がふんだんに出回るようになり、昭和初期には約20軒程あった製造業者も今は3軒になってしまっています。
高瀬飴は年間を通して発売されていますが、製造の中心となる時期は、10月~5月にかけてです。昔は正月やお盆の時期が忙しかったそうですが、夏場は飴がすぐ流れてしまうため固めに作らないといけないので、製造も大変で、以前ほど多量に作ることはなくなったそうです。飴の原料はかつては米から作っていましたが、第二次大戦後、麦芽水飴を使うようになりました。約40キロの水飴を大きなアルミ製の釜に入れて一時間以上しっかり加熱します。それを一日かけてゆっくりと冷まし、さらに翌朝弱火で2~3時間温めなおします。水飴をのばして飴挽き機にかけると、飴の色はだんだん白くなっていきます。そして小麦粉を敷いた長さ3メートルの台に移します。細長く白い飴を並べて細長い日本刀で長さ13センチ、幅3センチほどにきれいに切りそろえ、棒状や円形にすると出来上がり。仕上げはオブラートと紙に包みます。種類は棒状のもの(長飴)、円形のもの(丸飴)、一口サイズのもの(打切)、米糠をまぶしてあるものやショウガ・黒砂糖入りもあり、様々な味が味わえます。熊本市内のデパートや物産館、地元の温泉街でお土産に販売されています。

参考文献

熊本日日新聞社・熊本県大百科事典編集委員会編 『熊本県大百科事典』 熊本日日新聞社 1982

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