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鹿子木量平と文政神社(かなこぎりょうへいとぶんせいじんじゃ)八代市

鹿子木量平と文政神社のイメージ

所在地

八代市鏡町両出

利用案内

  • 駐車場:なし
  • トイレ:なし

解説

文政神社

文政小学校の近くから脇道を少し入った田園風景のなかに、鹿子木量平(かなこぎ りょうへい)をまつった文政神社があり、その脇に量平・謙之助父子の墓があります。
県道14号線から海側には広大な田畑が広がっていますが、この土地はほとんどが江戸時代以降に干拓された土地です。文政神社がある文政地区も江戸時代までは干潟が広がり、文政年間(1818~1829年)に埋め立てられたため、この地名が付けられました。また、北出、外出とよばれる地区がありますが、この「出」は「入植によってできた新しい村」を意味しています。
現在では、県内でも有数の農業地帯となっている八代市鏡町も、当時は海に面した湿地が広がり、農業には向かず、漁業で生活を維持する人びとが多く、「お国一の貧地」とよばれるほど生活は厳しかったといいます。

鹿子木量平

鹿子木量平は、宝暦3年(1753年)、飽田郡鹿子木村(現・熊本市北区鹿子木町)の庄屋宅に生まれ、幼いころから遊ぶ間も惜しんで勉学に励んだといいます。鹿子木村庄屋を務めているときに雲仙の大噴火(寛政4年)があり、大津波におそわれた村の救済に尽力した功績が藩に認められ、益城郡杉嶋手永の惣庄屋に任命されました。
文化元年(1804)年、52歳のときに、現在の八代市鏡町が含まれる野津手永の惣庄屋となり、「お国一の貧地」を治めることを任せられました。すぐに、人びとの生活を豊かにするために、干拓による新田開発を藩に願い出て実行しました。作業は困難の連続でいくつもの課題が待ち受けていましたが、彼は百町新地(文化2年)、四百町新地(文政2年)、七百町新地(文政4年)、と短期間で次々と新田開発に成功しました。
量平は天保12年(1841年)、89歳で亡くなり、その墓は3つの新地が交わる場所につくられました。さらに人びとは量平の偉業をたたえるために、没後70年にあたる明治43年(1910年)、墓の脇に神社を建て、量平を祭神としてまつり、感謝の念をもって参拝しました。これが文政神社で、量平の墓には、現在でも地域住民によって時折花が供えられ、感謝の心を伝えています。

参考文献

永松豊蔵 編著『熊本県八代郡鏡町史 上巻』鏡町、1982年
鏡町干拓史編纂委員会 編『鏡地方における干拓のあゆみ』鏡町教育委員会、2003年

周辺情報

鏡町には、量平が建てた貝洲加藤神社、だいばどんの墓、大鞘樋門など、干拓に関係する文化資源があります。

地図

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