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懐良親王の征西府跡(かねよししんのうのせいせいふあと)八代市

懐良親王の征西府跡のイメージ

所在地

八代市奈良木町宮園

利用案内

  • 駐車場:なし
  • トイレ:なし

解説

征西将軍懐良親王

14世紀の鎌倉幕府滅亡後、朝廷は足利幕府側の北朝と後醍醐天皇の南朝に分かれ、権勢を競い合っていました。しかし、徐々に北朝勢力の優位が目立つようになり、後醍醐天皇は起死回生の一策として自らの皇子たちを各地に派遣し、勢力回復を狙いました。 九州には懐良(かねよし、かねなが)親王が征西将軍として任命され、赴任しました。征西将軍とはいえ、当時の懐良親王は幼年で、しかも従者もわずかに12名、皇子のなかで最も絶望的な境遇でした。

懐良親王と征西府

九州へ向けて出発した時期については、延元元年(1333年)、同3年、同4年と諸説あります。九州北部は大宰府を中心として北朝勢力の勢力圏内にあり、懐良親王は伊予国(現愛媛県)を経由し、興国3年(1342年)に薩摩国の谷山城に入りました。
正平2年(1347年)に大宰府を目指して北上を開始し、その途上、懐良親王は現在の八代市奈良木町宮園の地に、わずか10日ほど滞在し、その後もたびたびこの地を訪れています。地元では「懐良親王御所跡」としてよび、同地の石碑にも同じ銘文が彫られています。
御所跡としてはいささか印象が弱くはありますが、懐良親王の家来である中院義定が、正平元年(1346年)2月5日に同地に先行して館を構え、懐良親王を迎え、以後もこの地に留まって大宰府陥落後の征西府としての地盤を確保したため、南朝勢力最後の征西府となりました。
八代を発した懐良親王は、正平3年(1348年)1月に宇土に入り、菊池武光(たけみつ)と合流し、正平16年(1361年)に大宰府攻略に成功、10年あまり九州を支配します。その後、大宰府が陥落すると、懐良親王は征西将軍職を良成親王に譲り、筑後国矢部に隠退し、弘和3年(1383年)3月27日に50歳あまりで没しました。
良成親王率いる征西府は、菊池、宇土と移り、宇土陥落後は八代市高田に最後の拠点を構えました。このころは、室町幕府も3代将軍・義満の時代となり、元中9年(1392年)の南北朝合体を迎えるまでの3年間を守り通しました。
現在、この地は小さな公園となり、「懐良親王御所址」と刻まれた石碑が静かにたたずんでいます。

参考文献

八代市史編纂協議会 編『八代市史 第2巻』八代市教育委員会、1970年

周辺情報

懐良親王のゆかりの史跡として、菊地武朝が懐良親王の菩提寺として建立した悟真寺(妙見町)、明治11年(1878年)に認定された懐良親王陵(妙見町)があります。

地図

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