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伝 玉目丹波守の墓(でん たまめたんばのかみのはか)山都町

伝 玉目丹波守の墓のイメージ

所在地

上益城郡山都町玉目

利用案内

  • 駐車場:なし
  • トイレ:なし

解説

加藤清正の義父、玉目丹波守

加藤清正は、天正16年(1588年)に肥後半国、慶長5年(1600年)に肥後一国の領主となり、家臣団の増員や領内支配の強化をはかるために佐々氏や小西氏の遺臣や土豪層を家臣団に加えていきました。
玉目丹波守(丹波)は、阿蘇家家臣で山都町玉目を本拠にしていたといわれ、 阿蘇家が衰退すると清正に仕えました。娘(正応院)が清正室となり、忠広と娘あまを産んだと伝えられています(諸説あり)。2代・玉目丹波の娘(法乗院)は忠広室となっています。
慶長16年(1611年)に清正が亡くなり、翌年、忠広の家督相続が許されましたが、重臣である加藤右馬允(うまのじょう)派と加藤美作(みまさか)派とのあいだで派閥抗争が起きました(馬方・牛方騒動)。
元和4年(1618年)に右馬允派が、忠広の外舅・玉目丹波と美作らが、大坂の陣のおりに豊臣方に内通していたことを幕府に訴えると、双方の非難合戦に発展し事態は混乱していきました。
幕府が両者を対決させると、玉目丹波が輸送船と称して兵船を造り大坂方に助力したこと、徳川家康・秀忠が大坂方に敗れたという知らせを聞いて大いに喜んだことなどの疑惑に対して、丹波父子は答えることができず、将軍秀忠の裁許によって美作派が排除され、玉目丹波は会津に流罪となりました。
現在は、山都町玉目に、初代・玉目丹波の墓と伝えられる場所に宝篋印塔(ほうきょういんとう)の相輪部2基があり、タブの巨木に抱かれた格好になっていますが、墓の隣には記念碑が建っています。

参考文献

蘇陽町誌編纂委員会 編『蘇陽町誌 通史編』蘇陽町、1996年

地図

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