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大矢野氏と大矢野城跡(おおやのしとおおやのじょうあと)上天草市

大矢野氏と大矢野城跡のイメージ

所在地

上天草市大矢野町上

利用案内

  • 駐車場:約5台
  • トイレ:なし

解説

大矢野氏の始まり

歴史に残る大矢野氏の記録は、鎌倉時代、元が九州北部へ2度にわたって攻め込んできた「元寇」において大矢野種保(たねやす)と弟の種村が戦ったものが最初です。同じく戦いに参加して武功をあげた肥後の御家人竹崎季長(たけざき すえなが)が、戦いの様子や自分の活躍を後世に残すために描かせた「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」のなかに、大矢野兄弟が船に乗っている様子が描かれ、「たねやすたねむらひょうせん(種保種村兵船)」と書かれています。
その後、大矢野氏は戦国時代に再び記録に現れます。戦国時代中期になると、志岐(しき)氏・天草氏・上津浦(こうつうら)氏・栖本(すもと)氏とともに「天草五人衆」の1人に数えられるようになりました。九州統一を狙う豊後の大友氏、薩摩の島津氏、肥前の龍造寺氏などの影響を受けながら独立を保ち、最終的には豊臣秀吉に従いましたが、大矢野氏は約300年にわたって大矢野地方の豪族として栄えました。
しかし、秀吉に肥後南部の領有を許された小西行長が大矢野氏ら「天草五人衆」を圧迫すると、それに抗して戦いを挑みました。苦戦した行長が援軍として呼んだ加藤清正も相手にしてよく戦いましたが、五人衆はついに敗北し、大矢野氏は領地を失って小西氏の家臣となりました。その後、大矢野種基(たねもと)は行長に従って秀吉が命じた文禄・慶長の役(朝鮮出兵)に参加しましたが、命を落としてしまいました。関ヶ原の戦いで西軍についた小西行長が滅ぶと、大矢野氏は加藤清正に仕え、加藤氏改易後は細川氏の家臣となりました。

大矢野城跡

大矢野中学校に隣接した地に昭和8年(1933年)に地元の人びとによって建てられた顕彰碑があります。ここは、大矢野氏の居城といわれている大矢野城跡です。ここからは大矢野の町が一望でき、この地に君臨した大矢野氏の当主の気分を味わうことができます。

参考文献

山内福重・川上昭一郎 著『大矢野家譜(暫定)』大矢野町郷土史研修同好会、1981年
大矢野町教育委員会 編『大矢野町の歴史』大矢野町教育委員会、2002年
大矢野町役場 編『大矢野町史』大矢野町役場、1970年
天草市教育委員会 編『天草の歴史』天草市教育委員会、2008年

周辺情報

観光施設:天草四郎メモリアルホール
近くの見どころ:キリシタン墓碑

地図

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