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内田康哉生誕地(うちだこうさいせいたんち)氷川町

内田康哉生誕地のイメージ

所在地

八代郡氷川町鹿野126-1

利用案内

  • 駐車場:あり(氷川町竜北歴史資料館)
  • トイレ:あり(氷川町竜北歴史資料館)

解説

内田康哉とは

内田康哉(こうさい)は、慶応元年(1865年)、八代郡鹿野(現・八代郡氷川町)に、医師・玄真の長男として誕生しました。名和童山に学び、明治9年(1876年)に同志社に入学しました(のち退学)。
その後、帝国大学に進み、卒業後は外務省に入り、ワシントン日本公使館勤務をはじめ、清国公使、オーストリア大使、米国大使、駐露大使を歴任しました。緊迫した国際情勢のなかで、日米通商航海条約の締結、辛亥革命、パリ平和会議、ワシントン会議など、重要な外交問題に対処していきました。

5度の外務大臣

明治44年(1911年)、内田康哉は、第2次西園寺公望内閣で初めて外務大臣に就任、大正7年(1918年)には、原敬内閣で、二度目の外務大臣となりました。平民宰相として人気を得ていた原敬が、大正11年(1922年)11月4日に暗殺されると、11月13日まで内田康哉が臨時首相を務めています。
その後、高橋是清内閣、加藤友三郎内閣でも外務大臣に就任しましたが、加藤首相が在任中に死去すると再び臨時首相を務めています。
内田康哉は、原内閣から加藤内閣まで、5年間も外務大臣を務めたため、「政友会の万年外相」とよばれています。
昭和5年(1930年)に貴族院議員に任命され、翌年には南満州鉄道の総裁となりましたが、このとき柳条湖事件(満州事変のきっかけ)が起こりました。国内では五・一五事件で犬養毅首相が暗殺され、陸軍の斎藤実内閣が成立し、政党内閣が終わりを告げましたが、内田康哉は、斎藤内閣で五度目の外務大臣に就任しました。
昭和8年(1933年)に、斎藤内閣は満州国を承認しましたが、議会でこの問題が議論されると、内田は「国を焦土にしてもこの主張を徹することに於ては一歩も譲らない決心」と演説し、「内田焦土外交」と騒がれました。
また、満州問題で日本は国際連盟を脱退しましたが、ここでも中心に内田康哉がいました。昭和11年(1936年)3月12日、日本の行く末を見届けることなく、72歳で病死しました。
内田康哉の生誕地に建てられた氷川町竜北歴史資料館では、遺品や遺稿などのほか、干拓関連資料を見学できます。

参考文献

竜北教育委員会 編『竜北村史』竜北村、1974年

地図

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