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丸目蔵人の墓(まるめくらんどのはか)錦町

丸目蔵人の墓のイメージ

所在地

球磨郡錦町一武

利用案内

  • 駐車場:あり
  • トイレ:なし

解説

剣豪丸目蔵人

丸目蔵人(まるめ くらんど)は天文9年(1540年)に八代郡に生まれました(諸説あり)。丸目家は、もと山本姓で、父親の代に相良晴広(相良氏17代)より「丸目」姓を許されました。16歳のときに大畑合戦で初陣を飾り、翌年には故郷を離れ、天草伊豆守から中条流を学びます。19歳で京都の上泉伊勢守信綱について新陰流を研鑽し、伊勢守門下四天王の一人と目されるようになりました。永禄10年(1567年)に信綱より印可状を受けたのち帰国し、九州各地に新陰流を広めるるともに、タイ捨流を完成させることになります。
帰国した丸目蔵人は相良氏に仕え、弘治2年(1556年)、相良晴広は西原氏を下して大口を手に入れ、東弾正忠・丸目蔵人・赤池伊豆守を番手頭として駐在させました。
次の相良義陽の代、永禄11年(1568年)に島津氏は大口攻略のため出陣しましたが、相良勢はこれを初栗の戦いで破ります。しかし、島津氏は再度大口に出陣、伏兵を潜ませ、相良勢をおびき出す作戦をたてました。島津氏の作戦に乗せられた蔵人らは出陣し、大敗してしまいます。この責任を問われた蔵人は3年間蟄居することになりました。
蔵人は、相良氏20代長毎から170石の知行を与えられ、晩年は徹斎と号して一武村切原野に住み、寛永6年(1629年)5月7日に90歳で亡くなりました。法名は雲山春龍居士、墓は切原野の堂山にあります。

参考文献

人吉市史編さん協議会 編『人吉市史 第1巻』人吉市教育委員会、1981年
錦町教育委員会 編『錦町の文化財』錦町教育委員会、1990年 

周辺情報

近隣には、亀塚古墳群や京ケ峰横穴群、桑原家住宅、大平渓谷など自然・文化資源が豊富です。

地図

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