沖塘樋門群(おきどもひもんぐん)氷川町
所在地
八代郡氷川町網道
利用案内
- 駐車場:なし
- トイレ:なし
解説
干拓の歴史を伝える沖塘の樋門
氷川町の網道(あみどう)と不知火干拓地の境を通る県道八代不知火線に沿って、網道新地の旧堤防(沖塘)が並び、そこに合計6つの樋門があります。この沖塘の樋門は、嘉永5年(1852年)に完成した網道新地の干拓のために造られたものです。
網道新地
不知火海は、潮の満ち引きの差が大きく、古くから干拓が行われてきました。江戸時代以前に干拓されたところもありますが、特に江戸後期(19世紀前半)は、大規模な干拓が繰り返されています。網道新地も、この頃の干拓事業によって作られたものです。
網道新地は、砂川尻(すながわじり)新地の一部で、野津(のづ)・河江(ごうのえ)・種山の3つの手永によって干拓されました。砂川尻新地は、砂川の河口部デルタに築かれた新地で、氷川町鹿島、宇城市小川町住吉・河江などの海辺にあたり、広大な干潟を締め切る大工事でした。
事業の責任者となったのは、野津手永惣庄屋・下山群次です。龍神社の碑文には、群次の功績が抜群であったこと、嘉永5年10月に潮止工事が行われたこと、その後3年間で耕地や水利の整理が行われたことが記されています。
この干拓によって、現在の氷川町網道地区、小川町住吉地区、松橋町砂川地区・浅川地区ができ、総面積は800町になります。
現在は、5枚戸の樋門が2か所、3枚戸の樋門が4か所あります。南側の2樋門は一部コンクリートで補修されて門が造られていますが、残りの4樋門は当時の石垣がよく残っています。
参考文献
竜北村教育委員会 編『竜北村史』竜北村、1973年
鏡町干拓史編纂委員会 編『鏡地方における干拓のあゆみ』鏡町教育委員会、2003年
熊本県文化財保護委員会 編『熊本県文化財調査報告 第182集 熊本県の近代化遺産』熊本県教育委員会、1999年
周辺情報
氷川町竜北歴史資料館で干拓の歴史について学ぶことができ、氷川町出身の内田康哉についての展示もあります。