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富田茂七と砥川用水(とみたもしちととがわようすい)益城町

富田茂七と砥川用水のイメージ

所在地

上益城郡益城町砥川

利用案内

  • 駐車場:なし
  • トイレ:なし

解説

富田茂七と砥川用水

飯野小学校のすぐ近くに、200年以上前に砥川(とがわ)村の人びとのために井手を築いた富田茂七(とみた もしち)の記念碑があります。
飯田山のふもとにある砥川村は、江戸時代中期には「土地が高く水利の便が悪く、数日雨が降らないと地面が乾ききって青々としていた稲もすぐ枯れる有様で、年によると一粒の米さえとれないことさえあった」(『上益城読本中巻』)と伝えられるほどで、村人たちは苦しい生活をしていたといわれています。
寛政3年(1791年)、下砥川村の庄屋になった富田茂七は、村を救うことはできないかと考えぬいた末、隣りの赤井村にある素麺滝(そうめんだき)とよばれる湧き水から水を引いてくることを思いつき、10年の歳月を費やして砥川井手を完成させました。

富田茂七の工夫と努力

水源である素麺滝と砥川村の高低差を比べると、素麺滝が低く位置し、そこで富田茂七は、低いところから高いところへ水を引くために工夫をしています。素麺滝の周りに堤防を築き溜池を作り、水をためることによって田畑のある場所より上まで水かさを上げ、その高低差を利用して水を流したのです。
疎水の取り入れ口からは、急な傾斜になっていたため盛り上げ土手を築き、その上に両側と底を石ばりにして水路を通しました。また、石の継ぎ目には、水漏れを防ぐために漆喰(しっくい)が施されています。井手は、船の山山麓に沿って進み、約3,350mの長さとなって砥川まで通じています。
富田茂七は上砥川村・中砥川村の庄屋とともに、鯰手永(なまずてなが)の惣庄屋のもとに井手作りを願い出ましたがその願いは聞き入れられず、郡代に直接願い出てようやく工事の許可をもらったといわれます。工事を終えて水を流してみると、堤防が崩れ失敗に終わり、その結果、茂七は「ばか茂七」とまでいわれたそうです。
工事が失敗に終わった後も茂七は、新しく交替した郡代のもとに、さらに数十回も願い出て、ようやく再工事が許されました。最初の工事が失敗していることから、郡代から「失敗した場合はどうするのか」と問いに対し、「村を救うのが庄屋のつとめです。万一失敗のときには、命を捨てて罪を謝す覚悟です」と答えたといわれています。
二度目の工事のときにも、悪口を言われたり、邪魔されたりすることもあったそうですが、茂七はそれに負けることなく井手を完成させました。そして、寛政13年(1801年)3月19日に疎水式が行われ、成功を知った村の人たちは一度に歓声を上げたそうです。
富田茂七が建設した砥川井手によって約105haもの田畑が潤され、現在の砥川地区は一面に美しい田畑が広がっています。

参考文献

益城町史編纂委員会 編『益城町史 通史編』益城町、1990年

周辺情報

近くの見どころ:砥川神社、木山城跡、木造薬師三尊像、猫伏石、飯田山常楽寺、赤井城跡

地図

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