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竹迫城跡(たかばじょうあと)合志市

竹迫城跡のイメージ

所在地

合志市上庄

利用案内

  • 駐車場:竹迫城跡公園利用
  • トイレ:竹迫城跡公園利用

解説

竹迫城

竹迫城(合志城、上庄城、蛇の尾城とも)は、鎌倉時代、源頼朝に合志郡地頭職に任じられた中原師員(なかはら もろかず、のち竹迫輝種と改名)によって築かれました。以降、竹迫氏が330年間、合志氏が80年間居城し、天正13年(1585年)に島津氏の侵攻によって落城するまで、合志市一帯の統治の中心地でした。南北朝時代には、南朝勢力の菊地氏や阿蘇氏と、戦国時代には島津氏と戦い、軍事上でも重要な位置を占めていました。

竹迫城の規模

竹迫城は、東西方向にのびる丘陵の背を巧みに利用し、守りやすく攻めにくいように空掘が幾重にも張りめぐらされ、かなり広範囲にわたって築かれていたと考えられています。南北に深い池があり、西側は崖で守りやすく、東側は丘続きであったので、ここを大きく掘り切って敵の侵入を防いでいます。
竹迫城の規模は、高さ135間、東西1,030間、南北3,180間(750間とも)、曲輪1里17町と伝えられています。本丸はもっとも高いところに築かれ、現在でも楕円形の平坦地(直径54m)が残っており、周囲には大規模な土塁と空掘が確認できます。
現在でも合志市には、「備前小路」「新屋敷」「城戸内」「陣ノ内」「大門口」「南屋敷」「屋敷」「御堂園」など、城に関係する地名が残り、「新堀」という空掘や、「城の見張り所」と伝わる場所も2か所残っています。市内に残る古い道は三叉路が多く、攻めにくいように工夫がされていました。
また、文政8年(1825年)に描かれた「竹迫城絵図」には、竹やぶ、田畑、集落、道路などが詳しく描かれ、江戸時代の竹迫城跡や空掘の様子を知ることができます。

現在の竹迫城跡

現在は、土塁、空掘、井戸の跡、寛永堀などを残して竹迫城跡公園として整備され、住民の憩いの場となっています。
竹迫城は、公園となった今でも、地元の人びとにとっては大切な場所になっています。本丸跡から土塁や空掘を見下ろしながら、800年前の様子を思い巡らしてみるのもいいかもしれません。

参考文献

合志町史編纂協議会 編『合志町史』合志町、1988年
合志町文化財保護委員会 編『合志町の文化財』合志町教育委員会、2003年
熊本県教育委員会 編『熊本県文化財調査報告 第30集』熊本県教育委員会、1978年

周辺情報

周辺には竹迫日吉神社や虚空蔵さんがあります。

地図

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