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城村城跡(じょうむらじょうあと)山鹿市

城村城跡のイメージ

所在地

山鹿市城

利用案内

  • 駐車場:あり
  • トイレ:なし

解説

城村城

前面は、岩野川が自然の堀となり、北部・東部はほとんど垂直な崖壁に囲まれた城(じょう)台地は、地形そのものが堅固な城となっています。その城台地に城村城があり、築城年代は不明ですが、赤星氏・隈部(くまべ)氏と共に、菊池三家老だった城(じょう)氏代々の居城でした。
城の遺構は、主郭の南側に空堀が残る程度ですが、その規模は「肥後国誌」によると2町8反余りといいます。現在は山林や畑となり、城跡に「城村城跡」の標石が立っています。近くには隈部親安の勧請といわれる菅原神社があります。
城村城が一躍世間の耳目を引くようになったのは、天正の国衆一揆の舞台となったからです。戦国時代には菊池氏が衰え、菊池三家老のあいだに争いが起こり、城村城には隈府城主隈部親永の子・親安が入城していました。
天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州平定後、秀吉は肥後国の領主に佐々成政を任命しました。成政は、領内を早急に把握するために、秀吉の命令に背いて検地を実施します。これに対して隈部親永は、自分たちの領地は秀吉によって安堵されていると主張して反抗しました。成政は6千の兵を率いて隈部城を攻撃し、敗れた親永は親安のいる城村城に入ります。以降、隈部氏の反抗は城村城が中心となります。

城村城攻防戦

隈部勢は、武士をはじめ、雑兵、領民を含め総勢1万5千人以上が籠城し、城の各地で激戦が行われました。城村城の攻防戦の最中、成政の本拠である隈本城に他の国人が攻めたとの報せがあり、成政は2つの付城(東付城と西付城)を設けて隈部勢に備えると、急遽、隈本に戻ってこれを破りました。
成政の応援要請を受けた筑後国柳川(現福岡県柳川市)の領主・立花宗茂の兵3千も加わります。城村城から出撃した山鹿重安・有働志摩は、立花勢と戦いますが敗れてしまいます。天正15年(1587年)12月、黒田孝高の勧告を受け、ついに親永は城を明け渡し、翌年5月、柳川で処刑されます。秀吉は上使衆および2万の軍勢を派遣し、隈部氏に呼応した国人たちはことごとく処罰されました。成政もまた国衆一揆を引き起こした責任を問われて、秀吉から切腹を命じられました。

参考文献

山鹿市町おこし運動推進協議会 編『ふるさと山鹿』山鹿市老人クラブ連合会、1986年
山鹿市史編纂室 編『山鹿市史 上巻』山鹿市、1985年
熊本県教育委員会 編『熊本県文化財調査報告 第30集』熊本県教育委員会、1978年
菊鹿町史編集委員会 編『菊鹿町史 本編』菊鹿町、1996年

周辺情報

近くの城横穴群、チブサン古墳、オブサン古墳をはじめとした貴重な史跡や山鹿市立博物館を訪ね、古代のロマンを感じてみませんか。

地図

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