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田中城跡(たなかじょうあと)和水町

田中城跡のイメージ1
田中城跡のイメージ2

所在地

玉名郡和水町和仁

利用案内

  • 駐車場:城跡入り口にあり
  • トイレ:城跡入り口にあり

解説

肥後国衆一揆と田中城

田中城の築城時期は定かではありませんが、史料上の初出は暦応3年(1340年)です。田中城は、戦国時代末期、肥後国衆の1人、和仁親実(わに ちかざね)が居城としていました。天正15年(1587年)、隈府城主の隈部親永(くまべ ちかなが)は、豊臣秀吉に肥後支配を任された佐々成政の検地に抵抗し、ここに肥後国衆一揆が起こりました。和仁親実は、隈部親永に呼応し、姉婿の辺春親行(へばる ちかゆき)と共に田中城に立て籠もりました。

田中城の攻防

攻城軍は、秀吉が派遣した安国寺恵瓊を始めとする1万の大軍で城を包囲しました。この田中城攻めの様子を描いたのが「辺春・和仁仕寄陣取図」です。この図によると、田中城の西に主将小早川秀包軍、その南隣に安国寺恵瓊軍、南に立花宗茂および筑前・筑後衆、北に鍋島直茂および肥前衆が取り囲んでいます。田中城には、柵をめぐらした3つの曲輪が描かれ、一段高い曲輪に辺春氏、ほかの2つの曲輪に和仁氏が立て籠もり、その直下に建物群があります。また攻城軍の攻め口が南側と北東側の高台に見えます。
約100日におよぶ攻防戦となりましたが、辺春親行の裏切りにより、天正15年(1587年)12月5日に落城しました。12月7日付けの安国寺恵瓊書状では辺春親行の「忠義」を賞賛し、本領の半分の安堵を示唆していますが、12月27日付け豊臣秀吉書状では、和仁・辺春氏一族はことごとく討ち果たされ、和仁・辺春一族4人の首が送られてきたことが記されています。

田中城

昭和61年(1986年)から始まった発掘調査によって田中城の実態が次第に明らかになってきました。
田中城の北から東側にかけて、福岡県境から続く山並みが延びており、和仁川流域に発達した水田地帯をのぞむように舌状の台地があり、この台地上に田中城が形成されています。中央部にある約1,700平方メートルの平坦な一画が主郭で、14棟の掘立柱建物跡が発見されました。「御座の間」、「番所(兵舎)」、「馬屋」、3つの「物見矢倉」などがあったと考えられます。主郭の周囲には、西側を除いて三方に幅10~50mの曲輪があり、その外側には空堀(深さ約4.4m~4.6m、主郭との比高差約10m)がめぐらされています。さらに北・西・南には、物見矢倉跡とよばれている高台があり、発掘調査の結果、西側の高台は柵列と堀のみが確認されたにとどまっており、「捨て曲輪」と考えられています。中世城の特徴として、田中城には石垣は築かれていません。
 

参考文献

三加和町教育委員会 編『三加和町文化財調査報告 第11・12集』三加和町教育委員会、1997年
三加和町史編集委員会 編『三加和町史 上巻』三加和町教育委員会、1994年
国武慶旭 著「田中城の国史跡指定に向けて」(『歴史玉名 第47号』)、2002年

地図

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