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竹崎季長の墓(たけざきすえながのはか)宇城市

竹崎季長の墓のイメージ

所在地

宇城市小川町北海東

利用案内

  • 駐車場:約10台
  • トイレ:あり

解説

竹崎季長の奮戦

文永11年(1274年)10月、モンゴル(元)軍の大軍が九州博多湾へ攻めてきました。教科書などでも広く知られる「元寇(蒙古襲来)」の1回目となる「文永の役」です。
肥後国竹崎(現・宇城市松橋町)の地を苗字とする鎌倉幕府の御家人、竹崎季長(たけざき すえなが)は、わずかな家来を連れて博多に駆けつけました。
モンゴル軍の弓、やり、それに「てつはう」(大きな音を出して破裂する爆弾のようなもの)などを武器とした集団戦法に対し、一騎討ちを伝統としていた幕府軍は苦戦しました。
季長は「弓(きゅう)せんの道進むをもてしょうとす。ただ駈けよ」と叫びながら、最初に敵中に突入し、乗っていた馬を倒され、自分も膝(ひざ)などに怪我をしても少しもひるまず懸命に戦いました。季長たち御家人の奮戦、加えて一説には大暴風雨などもあり、モンゴル軍は撤退しました。
季長はこの戦いで「戦功第一」と記録されながら、いつまで待っても恩賞の知らせが来ませんでした。意を決した季長は、翌年、鎌倉まで出かけ、3か月ものあいだ、恩賞奉行の安達泰盛に陳情を繰り返し、褒美として海東郷の地頭職と名馬を得ました。
この文永の役から7年後、弘安4年(1281年)6月に再びモンゴル軍は博多へ攻めてきました。しかし、日本軍は海岸に石塁を築いて守りを固め、モンゴル軍の上陸を許しませんでした。季長は再び博多まで出陣し、敵の大船に乗りつけて勇戦しました。 7月になると、大暴風雨が起こってモンゴル軍は兵力の大半を失い、弘安の役は終わりました。
戦いを終わらせたのは大暴風雨だったかもしれませんが、国を護ろうと懸命に戦った竹崎季長たちの活躍も忘れてはいけません。

『蒙古襲来絵詞』の制作

戦功によって得た海東郷の経営に季長は一生懸命に取り組み、神仏に対する崇敬の念も深く、菩提寺となる塔福寺(とうふくじ)を建立して出家しました。また、自分の経験した二度の蒙古襲来や幕府への直訴などを後世に伝えるため、『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』を作らせました。この絵巻は鎌倉時代の様子を示す貴重な史料となっています。

季長が眠るところ

竹崎季長が眠る墓と伝えられているものが海東の平原にあります。墓の周辺は現在「平原公園」として整備され、季長の墓と共に、季長の武勲を讃えた東郷平八郎の書による「弓せんのみちすすむをもてしょうとす」という言葉が刻まれた記念碑も建っています。
記念碑に登る階段の左側の小道をしばらく歩いた先に墓はありますので、公園を訪れた際にはぜひ墓まで足を伸ばしてください。
遠足でこの公園を訪れる地元の海東小学校の校歌にも「孝女おせきとすえながのほまれにさくらさくところ」と歌われ、季長が顕彰されています。

参考文献

小川町史編纂委員会 編『小川町史』小川町、1979年

周辺情報

近くの見どころ:文殊堂(舞鴫)、峠の石清水

地図

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