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甲斐宗運夫婦の墓(かいそううんふさいのはか)御船町

甲斐宗運夫婦の墓のイメージ

所在地

上益城郡御船町上辺田見

利用案内

  • 駐車場:東禅寺駐車場利用
  • トイレ:なし

解説

甲斐宗運夫妻の墓

東禅寺の裏手に小さな丘があり、そこにある幹まわり2.2mの大きな楠の下に、菩薩形をした2基の石仏が並んでいます。これを甲斐山塔とよび、像の高さ60cm、像の左膝に名前がきざんであり、蕉夢(宗運)、妙性と類推でき、甲斐宗運夫妻の供養塔と考えられています。
東禅寺の過去帳によれば、宗運は天正12年(1584年)7月5日、夫人は天正5年(1577年)5月19日に亡くなっています。そばに小さな墓石があり、高さ50cmの自然石で上部に梵字がきざまれ、下部に「天正十二年七月二十三日禅定門」と書かれてあり、これが甲斐宗運の墓と伝えられています。

肥後随一の知将甲斐宗運

甲斐氏は菊池氏から分かれ、一時、甲斐国に住したことから甲斐と名乗るようになりました。足利尊氏に従って九州に下ってきた後、日向国の高千穂に土着しました。宗運の父・親宣(ちかのぶ)は、阿蘇氏の内紛において阿蘇惟豊(これとよ)に従って活躍し、惟豊を阿蘇大宮司に復位させました。
この活躍で甲斐氏は厚い信頼を得て、父とともに戦った宗運も御船城主となって阿蘇氏の大黒柱として活躍し、名軍師として知られるようになりました。阿蘇惟豊を継いだ子の惟将(これまさ)にも重用され、大友氏や相良氏と結んで島津氏に対抗するなど、阿蘇氏の独立を維持するために努力しました。宗運の活躍と大友氏との同盟を支えに、阿蘇家は一時肥後で最も有力な大名となりました。しかし、大友氏の衰退、宗運の死去などで支えを失った阿蘇氏は島津氏の手にかかって滅亡し、甲斐氏も主家と運命を共にしました。
ちなみに、宗運とは出家後の名で、それ以前は甲斐親直(ちかなお)と名乗っていました。

東禅寺

甲斐宗運夫婦の墓がある東禅寺は、永禄7年(1564年)に再興されました。
宗運の位牌や愛用の茶がま、軍配、陣炬火などの遺品や剃髪(ていはつ)後の宗運の画像などが、寺宝として保存されています。

参考文献

御船町教育委員会 編・発行『御船風土記』1987年

周辺情報

近くのみどころ:御船町恐竜博物館、御船城山公園

地図

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