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宮部鼎蔵生家跡(みやべていぞうせいかあと)御船町

宮部鼎蔵生家跡のイメージ

所在地

上益城郡御船町上野

利用案内

  • 駐車場:なし
  • トイレ:なし

解説

宮部鼎蔵生家跡

御船町中心部から東へ約8kmほど行ったところは茶屋本とよばれ、宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)の生家跡があります。大正3年(1914年)に建立された大きな石碑が立ち、山県有朋によって「贈正四位宮部鼎蔵君邸跡」と書かれています。また、その近くの大きなカシの木の下には、鼎蔵が生まれたときに使われたという産湯の井戸が残されています。

宮部鼎蔵の波乱の人生

宮部鼎蔵は倒幕運動の先駆けとなって活躍した人物で、本名を増実といいます。文政3年(1820年)4月、益城郡田代村(現御船町上野)で宮部春吾の長男として生まれました。宮部家は、代々医者の家でしたが、おじの宮部増美(ますよし)の家を継いで山鹿流の兵学を修めました。
30歳のとき、熊本藩の兵学師範となり、やがて国学者・林桜園(おうえん)の原道館に入り、国学古典の研究を深めました。長州藩の吉田松蔭が嘉永3年(1850年)に、初めて肥後にやってきたときには、鼎蔵の家に泊まり、肥後の同志たちと盛んに交遊しました。
翌春、鼎蔵は家老・有吉市郎兵衛(頼母)の江戸出府に同伴し、さらに兵学を研修しました。そして、吉田松陰とともに東北の常陸、陸奥を経て、蝦夷との境まで旅をし、諸国の志士と交わり、尊皇攘夷の信念を深くしました。松蔭が海外渡航の決意を明らかにしたときは、時期尚早として止めましたが、松蔭の決意が固いことを知り、自分の愛刀と藤崎八幡宮の神鏡とともに「皇神(すめかみ)の まことの道を かしこみて 思いつつゆけ 思いつつゆけ」という一首を贈り激励しました。
文久元年(1861年)12月、出羽の清川八郎が熊本に来て、国の一大事について語り合いました。翌年、鼎蔵は上京し、公家や諸藩の志士と交わって尊皇攘夷の考えを深め、熊本藩にも奮起を促しました。藩も尊皇攘夷にふみきろうという雰囲気になりましたが、京都で幕府の力が強くなり尊王攘夷派の勢力が後退しました。
鼎蔵は文久4年(1864年)6月5日、尊王攘夷派の勢力回復を目指して三条小橋の池田屋で行われた同志20数人との密談に参加しました。ところが、その情報を察知した新選組や会津藩などの幕府派に襲われて、45年の人生に幕を閉じました。 

参考文献

御船町教育委員会 編・発行 『御船風土記』 1987年

周辺情報

近くの見どころ:鼎春園、八勢の眼鏡橋

地図

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