前のページに戻る

大津山の関(おおつやまのせき)南関町

大津山の関のイメージ

所在地

玉名郡南関町関東・関外目

利用案内

  • 駐車場:大津山公園にあり
  • トイレ:大津山公園にあり

解説

平家物語に登場する「大津山の関」

鎌倉時代に琵琶法師によって各地に伝えられた『平家物語』のなかに、現在の南関町に置かれた関所のことが書かれた一節があります。そこには、「肥後の国、菊池の武将である菊池二郎高直(隆直(たかなお)のこと)は、平安時代の終わり頃、絶大な権力を握った平氏に仕えたが、源頼朝を中心に勢いを取りもどした源氏の先陣を切った源義仲との戦いに破れ、安徳天皇、平宗盛(平清盛の長男)とともにいったん九州の大宰府に逃げのびた。その後、菊池二郎高直は、大宰府から『大津山(おおつやま)の関(関所)あけてまいらせん』と言って、自分の領地である肥後国の菊池へ戻ったきり、帰ってこなかった」と書かれています。
つまり高直は、「肥後国に入る場所にある大津山の関は、警戒が厳重で簡単に通れない関所なので、自分が先に行って後から逃げて来る人たちが関所を通れるようにしておきます」と言って、自分だけさっさと領地の菊池に逃げ戻ってしまったのです。
このように古くからその名をあらわす大津山の関は、筑後国と肥後国の国境という交通の要地にある関所として、著名な書物にも取り上げられる非常に重要な関として機能していたと考えられています。
大津山の関は、別名松風(まつかぜ)の関ともよばれていましたが、残念ながらその関が置かれた正確な所在地は、いくつかの説があって現在もはっきりしていません。福岡県山川町と南関町の県境付近に置かれていたという説や北の関と南の関の二つがおかれていたという説があります。

古代から交通・軍事の拠点であった南関

なお、奈良時代には、この地域に筑後国の国府と肥後国の国府を結ぶ官道の重要な駅「大水(おおむつ)駅」が置かれたとされています。そして先にも述べたように平安末期の源平の動乱から鎌倉時代、室町時代にかけては、軍事上の拠点もかねた関所として発展し、大津山に築かれた城とともに、その支配権をめぐりたびたび争乱の舞台ともなりました。

江戸時代には

安土桃山時代から江戸時代にかけても、小倉、久留米、熊本を結ぶ豊前街道の関所が置かれ、重要な役割をになっていました。
 全国統一を進めていた豊臣秀吉が、最後まで抵抗していた薩摩の島津氏を征討するために九州に出兵したときに、この関所を通っています。そのとき、秀吉に茶を献上するために用いられたとされる湧き水が、今も「太閤水(たいこうみず)」として大津山公園の一角に残されています。
また、江戸時代には、現在の南関町の中心部近くに関所と南関番所がおかれ、熊本藩に出入りする人々の検閲や取り締まりが行われていました。また、参勤交代で江戸へ向かう大名行列が通るときには、厳重な警備をするための拠点となっていました。
関所を見下ろす位置にあり、関所の名の由来ともなった大津山の頂上には、中世に築かれたつづら嶽城跡があり、大津山阿蘇神社や周辺の自然の森一帯とともに人びとのいこいの場となっています。ここには、江戸時代の関所の象徴であった「冠木門」が立てられ、「太閤水」が今も湧いています。

参考文献

平凡社 編『熊本県の地名』平凡社、1985年
南関町史編集委員会 編『南関町史 絵図 地図』南関町、1999年
南関町史編集委員会 編『南関町史 特論』南関町、2002年

周辺情報

周辺には、北原白秋生家や参勤交代時に大名が休憩を取った南関御茶屋跡、西南戦争で戦死した政府側の墓地(官軍墓地)があります。

地図

ページの先頭へ戻る