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布田保之助の墓(ふたやすのすけのはか)熊本市

布田保之助の墓のイメージ

所在地

熊本市西区春日

利用案内

  • 駐車場:来迎院利用
  • トイレ:なし

解説

肥後先哲の一人に数えられる布田保之助(ふた やすのすけ)は、享保元年(1801年)、上益城郡浜町(現山都町)に生まれました。諱は惟暉(これてる)といい、天保4年(1833年)に父の跡を継いで矢部手永の惣庄屋となります。
在勤29年の業績は大きく、なかでも安政元年(1854年)に完成した通潤橋は難工事を極め、保之助の苦心は言語に絶するものがあったといわれます。上流下流合わせて百町歩の水田を潤し、矢部地方の人びとは今日にいたるまでその恩恵を受けています。
その功績により明治6年(1873年)には天杯の下賜、没後の大正5年(1916年)には従五位が贈られ、さらに昭和11年(1936年)には布田神社が通潤橋近くに建立されました。また、昭和27年(1952年)には熊本県近代文化功労者として顕彰されています。
明治6年(1873年)4月に73歳で逝去し、大正時代に子孫が住む熊本市内の万日山墓地にその墓が立てられました。

周辺情報

来迎院の境内には、熊本市長を務めた辛島格(いたる)・知己(ともき)親子の墓などもあります。

地図

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